パーシ・ダイアコニスはダイ・バーノンの最初の弟子と言ってもよい人物です。1959年に当時14才であったダイアコニスは、家も学校も飛び出して、ダイ・バーノンと数年間のマジックツアーで生活を共にしています。これは、バーノンがマジックキャッスルへ迎え入れられる少し前のことです。朝昼晩とバーノンとのマジック漬けの生活が続けられます。それだけでも奇跡的ですが、10年間マジシャンを続けた後、猛勉強をして23才で大学へ入り、その後、統計学の教授となります。しかも、マッカーサー賞をはじめいくつかの賞を受賞しています。これまでの全てが奇跡的で、普通ではあり得ないことの連続です。
|
彼に関しては書きたいことがたくさんありますが、長くなりますので普通では考えられない奇跡的な出来事を中心に報告します。それは一つだけではなく次々に起こっています。まず、その前に、それらの奇跡が起こる14才までの彼の家庭状況から報告することにします。
|
1959年にバーノンがニューヨークを離れる時に14才のダイアコニスに声をかけたのは、既にその段階でかなりの実力があったからです。ルイス・タネンの店にいつも出入りしていた彼は、ディーラーや客から最新の情報を得ていただけでなく、テクニックもかなりのものであったようです。さらに、マーチン・ガードナーから数理マジックの知識と、それを改良する面白さも得ています。また、1958年に初めてニューヨークを訪れたエルムズリーとは、エルムズリーカウント(当時はゴーストカウントの名前で少数のマニアに知られていた)のダイアコニスの方法を見せて話し合いをしています。その時にエルムズリーからパーフェクト・フェロウシャフルの方法と、それを使った数理原理も教わっています。スムーズに行うためのカードの細工のことも聞いていたと思われます。猛練習をしてかなりの腕前になっていたようです。そして、2進法の考え方を教わり、52までの好きな枚数目を2進法表示して、「1」をイン、「0」をアウトシャフルすることにより、トップカードを目的枚数目へ移動させることも可能になっていました。
|
ダイアコニスは100以上の多数のカードマジックを考案したといわれています。しかし、彼の名前で発表されたものはほとんどありません。12才(13才)でマーチン・ガードナーとニューヨークのカフェテリアで交流するようになり、彼が改良した作品がガードナーによりサイエンス・アメリカ誌に掲載されます。それが彼の最初の文献上の作品となりますが、具体的な内容は分かりません。
|
2012年秋にパーシ・ダイアコニスとロン・グラハムの共著として "Magical Mathematics" が発行されました。グラハムは数学者で一流のジャグラーでもあります。この日本語版が共立出版より川辺治之氏の訳で2013年12月に発行されたのが「数学で織りなすカードマジックのからくり」です。この本の後半で、数理マジックに大きく貢献された7名のマジシャンが紹介されているのが興味深い点です。英語版の本が届いた時に、真っ先に読んだのがエルムズリーに関する記載の部分です。13才のダイアコニスとの出会いのことは、既に上記で報告しました。しかし、それだけでなく、それから約10年後(1969年)に英国でエルムズリーに会った時の話にも熱中してしまいました。この時にチャールズ・ジョーダンのリフルシャフルしたデックから客のカードを探し出すマジックを、コンピューターとパンチカードで応用した方法を見せられます。このことがダイアコニスのその後の研究論文の一つに関わってきます。リフルシャフルを何回繰り返せば、最初の配列の影響が全くなくなるのかを明らかにする研究です。その結論は7回となっています。7回を超えると指数的な速さで元の並びの影響がなくなるそうです。エルムズリーとの関係は、その後も毎年1回は英国へ訪れ、コンピューターを使った作品も多数見せてもらったようです。このようなコンピューターの面白い活用が、ダイアコニスの統計学の研究にも大いに役立っていたのではないかと思います。なお、エルムズリーは英国の大きなコンピューター企業の上流プログラマーの仕事をしていたようです。
|
ダイアコニス自身のことに関しては、1980年代中頃に購入していたサイエンスの雑誌と、数学者や統計学者を紹介した本を元にしています。これらには、多くのページを使って詳細に報告されていました。さらに、ネットでも数学者や統計学者としての彼の情報を得ることが出来ます。今回発行された本には、ダイアコニス自身に焦点をおいた項目はありません。しかし、断片的には興味深いエピソードが満載でした。昔からバーノンの弟子としての名前は聞いていましたが、1980年代のこれらの文献でパーシ・ダイアコニスの名前は忘れられない存在となりました。
|