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コラム

第117回 最初の英国マジック解説文献と魔女狩り(2024.6.8up)

はじめに

英国で最初にマジックを解説した文献として現存しているのは、1584年発行のレジナルド・スコット著“Discovery of Witchcraft”です。日本名では「妖術の開示」や「魔術の暴露」の名前で知られています。238ページもある本の中で22ページだけがマジックの解説です。それは方法を覚えて実演してもらうためのものではありません。不思議な現象が本物の魔術ではなく、巧みな技術やタネによるものであることを暴露しています。この本の発行目的が魔女や魔男(妖術師)として捕らえられ裁判を受けることの不当性を訴えていたからです。

日本の魔女イメージは悪くありません。魔女の宅急便、東洋の魔女、美魔女など、どちらかと言えばよいイメージです。しかし、ヨーロッパの中世から近世にかけての魔女は、キリスト教社会を破滅させる恐ろしい存在とされていました。告発されたり疑いのある人物が否定しても拷問で自白させられ、さらに仲間の名前も無理やり自白させられて集団で処刑されていました。必ず裁判が行われますが、魔女は例外犯罪として最大級の罪で拷問をしてでも自白させ火刑にする判決が各所でなされます。魔女は必ず魔女集会に参加しているとして仲間の名前も自白させられていたわけです。現在では考えられない魔女狩りが行われていました。

今回のコラムでは、この本に解説されたマジックの紹介だけでなく、本来の出版目的の魔女狩りについても少しだけ取り上げました。なお、ヨーロッパの中で他国よりも魔女狩りが少なく、100年早く魔女狩りが終結したのがオランダです。当時はネーデルラント連邦共和国と呼ばれていました(ネーデルランドではありません)。また、スコットの本が唯一翻訳されたのはオランダで1609年のことです。1610年には魔女裁判自体も終了を決定しています。日本とオランダ東インド会社との貿易開始は1609年からです。江戸時代の日本が世界の中でもマジック文献の発行数が多いのですが、そのことが1990年代に山本慶一氏やマックス・メイビン氏により世界に紹介され世界からも注目されています。江戸時代のマジックは中国の影響が大きいのですが、オランダの影響はなかったのでしょうか。そのためにもレジナルド・スコットの本のマジックを調べる必要を感じました。

魔女狩りとレジナルド・スコットの本について

魔女狩りといえば1000年も続いた暗黒の時代の中世を想像してしまいます。意外にもヨーロッパ全域での悲惨な魔女狩りが多発したのは近世になってからです。つまり、ルネッサンスの後です。1560年頃から1630年頃が最大数の処刑者を出したようで、ひどくなり始めた1584年にレジナルド・スコットの本が発行されました。1582年にイングランド・エセックス州の助産師が魔女の嫌疑をかけられ拷問で仲間の名前も自白させられ、罪もない数名が処刑されます。あまりのひどさに心を痛めたレジナルド・スコットが238ページもある本を発行します。彼女たちが魔女であるわけがなく、そのようにさせてしまった根本の責任はローマ教皇にあるとしています。そして、カトリック教会こそが魔術の体系の創始者であり、魔女迫害の張本人であると主張していました。当時の英国の本の出版はロンドン司教の承認を必要としていたので、このような異例な本が発行できるわけがありません。それをうまく切り抜けて出版していました。スコットはオックスフォード大学卒で、農業改革に熱心なことから1574年には「ホップ栽培の完全なやり方」の本を発行しています。また、治安判事もつとめている人物でもありました。この本の中のマジック解説は22ページだけですが、現在にも大きな影響を与えた重要な作品ばかりです。

この本が発行された時代は、誰もが魔女の存在を信じ魔女であれば処刑すべきと恐れていました。これは著者のスコットも同様であったようです。スコットが主張しているのは、裁判にかけられた人物は魔女ではないと言っていたわけです。中世では昔から伝わっている白魔術の占いや呪術は、悪魔や魔女が行う黒魔術とは別物とされていました。白魔術には昔から伝えられていた民間での治療行為や出産補助の助産師も含まれます。それが中世の終わり頃には、悪魔学者や教会のエリートらにより黒魔術と同じようにねじ曲げられ魔女扱いされます。マジックのような不思議な現象も魔術行為とされる恐れがあり、スコットはマジックにはタネがあることを証明しています。マジックに関する情報の大部分をフランスからの移民であったジョン・コータレスから入手しました。現在でも通用する価値の高いマジックばかりです。また、同じ年にフランスではPrevostによるマジックだけの本が発行されますが、こちらも素晴らしい内容です。当時のフランスの凄さが感じられます。スコットの本のマジックに関しては、1993年の「ザ・マジック」16号17号18号の3冊に詳しく紹介されています。スティーブン・ミンチ氏の詳細な内容を河野瞳氏が翻訳され松山光伸氏が協力されていました。また、同じ著者による「草創期(1584~1886)の西洋クロースアップ・マジック小史」が長谷和幸訳によりマジックランドから発行されています。1997年にはスコットの本のマジック部分の注釈本となるStephen James著 “The Annotated Discovery of Witchcraft Booke XIII” も発行され参考になります。

スコットの本のマジック解説

マジック解説の冒頭には、方法を暴露することにより、街頭マジシャンの生活に影響を与える恐れを心配されています。しかし、魔女としての疑いをかけられたり、この本の発行目的のためにも暴露することの必要性も述べています。彼らの演技が神の名前を使ったり神の力を使わずに行っているのであれば賞賛される行為としています。マジックの技術が手の巧妙な操作によるものであり、特にここでは3つの方法をあげています。ボールを隠すことと移動させること、コインを変化させること、カードのシャフルです。これらに熟達するには練習が欠かせないと強調していました。

カップ・アンド・ボールに1ページ半、コインに4ページ、カードは2ページ半の解説です。それ以外では、ハンカチの結び溶け、おばあさんの首飾り、箱による2種の仕掛けと内容物の変化、パドルトリック、ジプシーの糸、紐切り、紐による口中テープ、カラーリングブック、リング・オン・スティック、リングの頬貫通、ナイフを飲んだように見せる、刺すと柄の中に入る太い針状のもの、切ったように見せるナイフ、切った頭部を別の位置へ置くイリュージョン、V字型の木製品を鼻に当て紐の貫通など。そして、イラストだけの4ページがあり、V字型の木製品とおばあさんの首飾り、特別な太い針状のもの3種と特製ナイフ3種、頭部イリュージョンのイラストがありました。

カップ・アンド・ボールでは、各種パームの方法と右手のボールを左手に渡してカップの下へ入れたように見せる方法などが解説されます。カップの代わりにロウソク立ての底の窪みやボール(鉢)や塩ビンのフタが使われていました。当時の街頭マジシャンは現在と同様なカップを使っているのに、なぜか違うもので解説していたのが奇妙です。ドイツのKurt Volkmannの本が1956年に英訳されて発行されていますが、15世紀から16世紀のヨーロッパでのカップアンドボールが演じられている絵画が15ほど紹介されています。そこには現在と同様なカップが使われていました。詳細は2016年の第73回のコラムで報告しています。

24章から26章がコインマジックで、その冒頭にはクラシック・パームとフィンガー・ピンチの説明があり、15のマジックが解説されています。ここでは15作品の概要だけですが、2006年の第24回コラムではもう少し詳細に報告していますので参考にして下さい。

1 右手から左手へ渡したコインを消失させる方法
  ナイフの柄と右手パームのコインにより音を出す

2 右手から左手へ渡したコインを別のコインにチェンジ

3 演者の左右の手に持ったコインが一方に集まる

4 客に握らせた1枚のコインに演者のコインが飛行

5 4と同じ現象を余分なコインを使わずに行う

6 右指先のコインをクラシック・パームしつつ投げて消失と再現

7 ポットからコインが飛び出したりテーブル上をコインが動く

8 コイン・スルー・ザ・テーブル現象 パームかラッピングを使用
  マークを付けたコインをハンカチに包みテーブル下の水鉢に落下

9 ダブル・フェイス・コインを使ったコイン・チェンジ
  コインに別のコインをワックスでつけ、はがすことも可能に

10 ペニーコインを掌に置いて手を握って開くとコインの消失と再現
  中指の爪に付けたワックスによりくっつけている

11 握っている感覚のあるコインや額に貼り付いている感覚のあるコインが消失

12 マークを付けさせたコインを川か池に投げ入れ別所より取り出す

13 マジックというよりもひっかけ問題
  両手を近づけずに一方の手のコインを他方へ移す賭け

14 (意味がよく分からない)

15 折りたたまれた紙の中でのコイン・チェンジ(ブッダ・ペーパー)
  ハンカチや紙でコインを巻いて開くと別のコインになる

ロープ切りで驚いたのが、客が身につけている紐の中央を切っていたことです。衝撃的な効果になります。同様なタイプの短い紐を用意して演じているわけです。

スコットの本のカード奇術と阿部徳蔵著「とらんぷ」の本での翻訳

スコットの本の第27章がカード奇術ですが、その冒頭にカードゲームのイカサマについて書かれています。その方法についてはあえて解説されていませんが、良い条件になっていても必ずサクラがいることの例をあげ、避けるべきであると書かれています。また、シャフルによるボトム保持が重要でその方法が細かく解説されています。そしてカード奇術5作品の解説があります。

1 シャフルして次々と4枚のAの出現、それが4枚の絵札へ変化

2 シャフルしたデックのボトムを覚えさせ、そのカード名を当てる

3 2と同様な方法の別法

4 3枚を並べて客が心に思ったカードを当てる
  表向きに広げたデックの中で心に思ったカードを当てる

5 クルミから客のカードや予言を取り出す。フォースの方法も解説

2002年にマジックランドよりTon’s ニュースレター「プレジャー」が発行されます。その1号(宣伝用の0号にも)には「妖術の開示」と「とらんぷ」の本についての記事が掲載されています。「とらんぷ」は阿部徳蔵氏により1938年に発行された著書で、マニアであれば持っておくべき本として知られていました。「プレジャー」にはカードマジックが最初に解説された文献としてスコットの本のことが紹介されています。そのカード奇術に関しては、阿部徳蔵著「とらんぷ」に翻訳されていることが報告されていました。最近では和泉圭佑氏が「とらんぷ」を再販されましたので手に入れることができます。

阿部氏の本の第6章「とらんぷのゲームと詐術」では、スコットの本のカード部門の冒頭で報告されていたギャンブルの詐術記事が翻訳されていますので参考になります。勝てそうに思えても必ずサクラがいる数例をあげていました。そして、第7章「とらんぷと奇術」で上記5作品を解説していました。特に感心したのが4番目の作品解説の後半部分です。前半は3枚のカードを表向きに少し離して並べて1枚を覚えさせる時に、客の視線に注目することが解説されています。後半では、全てのカードを表向きに広げた場合に、目立つ絵札と客の視線を見ることも解説されていました。そして、素早くカードを揃えて取り上げる注意点にもふれています。海外のスコットの本のカードを解説した数冊の文献では、3枚使用のことだけ取り上げて、後半部のデック使用が省略されていました。なお、当時のカードはインデックスがないので、現在以上に絵札が最も目立つカードであったわけです。当時からこのような考えがあったことに興味がひかれます。

問題はシャフルの解説部分です。「トランプ」の本では当時のシャフルのことが分からなかったのではないかと思います。ボトムを保つシャフル解説の22行が省略されていました。ボトムを保つシャフルとしてインジョグやアウトジョグが登場しますが、現在のようなシャフルではありません。オーバーハンドシャフルはかなり後になってからです。当時の方法は、左手にデックを持っている状態で始めた場合、左親指で数枚を右へ押し出し、右手の上へ重ねて取って行くタイプのシャフルです。つまり、両手共に上向けた状態です。ジャンボカードをシャフルする場合をイメージすると分かりやすいと思います。アウトジョグの場合は人差し指、インジョグの場合は小指を当てて、数枚のジョグカードがボトムになるようにシャフルを続けています。解説された5作品の1番から3番までは、このシャフルが重要な要素になります。

江戸時代のオランダとマジックの接点

1784年発行の「仙術日待種」に、親指の爪に米粒をつけてコインの消失が解説されています。これをスコットの本では、コインマジックの10番目の現象として中指の爪にワックスをつけて行う方法で解説しています。方法が分かれば簡単にできるので宴席の余興で行われた可能性があります。スコットの本と関わりがありそうなのが、これだけしか見つけることができませんでした。この頃は西洋の影響がはっきり現れていた時期です。1774年に杉田玄白が「解体新書」を出版しています。また、1776年には平賀源内が破損していたエレキテルを修理し復元していました。平賀源内は1780年に亡くなっていますが、彼についての興味深い話が1815年発行の杉田玄白著「蘭学事始」に掲載されていました。オランダ商館の一行が江戸参府時に宴席が設けられ、その末席に源内が加わっていました。商館長が戯れに布袋を取り出すと、その口が知恵の輪で閉じられていました。それを全員に回して見せますが、末席の源内だけが少し考えた後で知恵の輪を外してしまいます。感心した商館長はその布袋を源内にプレゼントしたそうです。岩波文庫「蘭学事始」では27ページに掲載されています。この知恵の輪は九つの輪がある「九連環」の可能性が高く、ヨーロッパでは16世紀には存在していました。

Ton’sニュースレター「プレジャー」4号の「江戸の知恵・江戸の技」には、上記「仙術日待種」のコイン消失奇術のことが既に報告されていました。それだけでなく「仙術日待種」には、紙に書いた文字がその紙の灰で腕にこすると文字が現れる解説があることも報告されていました。これは酒を使って腕に文字を書いているのですが、1715(18)年の英国ジョン・ホワイト著「ホーカス・ポーカス」にワインを使う方法で解説されています。また、1784年の「盃席玉手妻」にも同じ現象が、油を使う方法で解説していたことも報告されていました。

2010年発行の松山光伸著「実証・日本の手品史」の392ページにも興味深い報告があります。1802年6月15日に長崎オランダ商館で手品による接待が行われていたことです。これはオランダ商館長の日記に書かれていました。手品の内容や誰が演じたかは書かれていません。1795年にフランス革命軍がオランダ本国に侵入し、本国が滅亡の状態に陥って混乱していました。本来の大きい船が用意できず、西洋の品も良質なものが送れない状況になり、江戸にも状況を理解してもらう報告のために長崎奉行を宴席で接待していたわけです。また、4年に1回の商館長の江戸参府があるのですが、その時には他に2名が同行していました。もしかしますと、江戸の宴席でも手品が演じられた可能性があります。

調査の中で分かった面白いことが、この時期にオランダ本国では用意できない船の代わりを、アメリカ東海岸のセーラムの船を使っていました。この頃の数年間はアメリカ人が長崎出島に出入りしていたわけです。セーラムは1692年にセーラムの魔女狩りとして有名な事件が起こった町です。ボストンの北側の近くにある町ですが、子供が奇妙な症状を見せるようになり、その原因として女性が捕らえれ、その後、近くの町を含めて200名近くが捕らえら数名が死亡しています。現在のこの街は魔女狩りが起こったことを戒めにして、魔女狩りがあった町として観光地化されています。

中世、ルネッサンス、近世、魔女狩りの時代

中世は4世紀から14世紀、ルネッサンスは14世紀から16世紀の初め、近世はそれ以降です。中世は暗黒の時代と言われています。しかし、カトリック教会を中心にして安定した時代で中頃までは魔女狩りがありません。教会の教えに従わない人物に反省を促す刑を与えていた程度です。1000年近く続いた中世の間に悪魔の手先としての魔女の概念が広まります。不幸なことの元凶を魔女の仕業として民衆が恐れ、民衆から魔女告発が起こるようになります。1280年から1330年にかけて魔女狩りを正当化する基盤が作られますが、ローマ教皇とフランス王との壮大な争いによるヨーロッパ世界全体が緊張していた時期でもありました。14世紀中頃のペスト大流行でヨーロッパ人口の3分の1が減少したことも何か影響がありそうです。この頃の寒冷による作物の不作は魔女告発に大いに関わりがあると考えられます。1486年には有名な悪魔学書「魔女への鉄槌」が拷問の仕方や自白させるテクニックなどがまとめられ、この本が審査官のバイブルとなります。魔女の妄想は教父・神学者・教皇・公会議・悪魔学者らにより練り上げられ、悪魔学者の著作によりとどめを刺した状態です。ルネッサンスの時代に活版印刷術が登場し悪魔や魔女の著書が多数出版され、ヨーロッパ全域に魔女への恐怖と魔女狩りの熱気が高まります。時代が進むほど本の内容もエスカレートし、魔女がいた家系全員の処刑や子供は特に処刑すべき対象として書かれるようになります。

魔女の被疑者とされる人物は、何年も前から悪評がくすぶっていることが多く、何か不幸や災厄が起きた時に魔女扱いされます。嫌われ者の老婆や、その共同体出身でない女性が標的になる傾向でした。ところが、1560年頃からは魔女告発の「狂乱」が生じ、社会的地位が高い富裕層農民やエリート市民や貴族や聖職者までも標的になります。政治的対立やカトリックとプロテスタントの対立なども複雑に絡んでいるようです。17世紀中頃も魔女狩りが続きますが、次第に消滅傾向です。しかし、ヨーロッパの周辺や北米は17世紀後半から激しくなります。

激しさはヨーロッパの各地で異なり、数年間継続した後は下火となり、また、数年後には激しくなることもあります。魔女狩りは大都会では少なく、山間部や国境周辺で多発しています。ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)はかなり激しく、ヨーロッパ全体の処刑者の約半数を占めていたようです。スイスは人口が少ないのに1万人が裁かれ5000人が処刑されています。フランスは地方の裁判で魔女決定されても中央での再審義務があり、多くは無罪か減刑されています。それでも国境周辺や山間部の谷間では無秩序状態になっていました。イングランドでの処刑は少なめですが、スコットが本を出すきっかけとなるエセックス州が多かったようです。スコットランドは激しい時期がありましたが長期ではありません。

スコットランドのジェイムズ6世は1597年に「悪魔学」の本を発行しスコットの本を批判しています。この6世は1603年にスコットランドだけでなくイングランドを含めた王としてジェイムズ1世となります。そして、魔術や魔女に対する法律が制定され、スコットの本は禁書となり、没収して焼きはらわれました。スコット自身は1599年には亡くなっていましたので特に罰を受けることがなかったのが幸いです。「魔女狩りのヨーロッパ史」には、なぜジェイムズ王が魔女狩りに積極になったのかが報告されています。自分の結婚式の海難事件が原因です。デンマーク・ノルウェー国王の娘アンが結婚式のためにスコットランドへ向かう途中に嵐に襲われノルウェーへ避難します。ジェイムズ6世がノルウェーへ迎えに行く時も嵐に襲われ、その後、デンマークから二人でスコットランドへ行く時も嵐に襲われます。1590年に魔女裁判がデンマークとスコットランドで行われ数名が処刑されています。これには政治的な裏があり王殺害の企みも判明しています。結局、嵐と魔女との関係はないのですが魔女狩りに積極的になり、1597年に「悪魔学」を発行するほどになります。

スコットの本の影響と最近の魔女狩り研究書での記載

レジナルド・スコットの本の関係で以前から魔女狩りにも興味を持ち、その研究書を購入して読んでいました。2024年3月には岩波新書から池上俊一著「魔女狩りのヨーロッパ史」が発行され、新しい研究報告やデータを中心にまとめられていました。分かりやすい内容でしたので一気に読み終えました。「魔女狩りのヨーロッパ史」の本の「魔女狩りの終焉」の章では、最初にスコットの本の表紙が大きく掲載され、この本について少しだけ紹介されています。もちろん、マジック解説の話は登場しません。岩波新書では1970年にも森島恒雄著「魔女狩り」を発行されています。参考になる著書ですが、暗黒裁判に抗議した少数の人々にスコットの名前や彼の本の記載がありません。それに比べて1978年発行の浜林正夫著「魔女の社会史」では、スコットの本のことが6ページも記載され、さらにもう1ページを使ってスコットの本の表紙を大きく掲載されていました。その理由はハッキリしています。1972年にDover社からスコットの本が驚くべき安さで発行されていたからです。それ以前は1930年版や1886年版が発行されていますが、ほとんど知られていなかったと思います。購入しようとしてもかなりの価格がしていたと考えられます。スコットの本の初版は1584年ですが、1609年にオランダ語に翻訳されています。翻訳出版はこれだけのようです。スコットの第2版は1651年で第3版が1665年です。それから1886年版まで再販されていないようです。

スコットの本が発行されて魔女狩りが減ったかといえば逆にますます激しくなっています。スコットの本の効果が発揮されなかったのは、さまざまな要素が重なって魔女狩りをエスカレートさせる状況があったためです。そして、魔女狩りや拷問をより厳しくマニュアル化する本が次々と発行されたからです。各種の本が翻訳され多くが再販を繰り返すほどの影響力がありました。スコットの本の発行当初は効果を発揮できていませんが、その後の魔女狩り反論の文献に影響を与えています。1609年にオランダ語翻訳の翌年にはオランダで魔女狩り裁判をしない決定が出されますが、その決定には翻訳本が関わりを持っているのではと考えてしまいます。そして、最も大きい影響を与えたのが、英語での最初のマジック解説文献であったことです。1612年にはスコットの本のマジックの部分を中心にまとめたSa: Rid著 “The Art of Jugling” が発行されています。新たに加えられているのは2つだけで、客の手の2つのボールに3個目が移動する現象と、4Aが4Kになり4枚のブランクになる有名なトリックも加えられています。そして、1634年の “Hocus Pocus Junior” にも大きく影響を与えていました。さらに、シェイクスピア(1616年死亡、52才)の戯曲の中の超自然現象もスコットの本に基づいて書かれていることが知られています。英国でスコットの本が1651年と1665年に再販されているのは、英国で魔女狩りを終わらせることへの大きな影響を与えたのではないかと考えたくなります。

おわりに

今回のテーマは、魔女狩りがマジック発展に大きな障害になったのではないかと思い調べることにしました。結局は思っていたほどの大きな問題がなかったことが分かりました。そして、この頃から19世紀まではフランスがマジックにおいて一歩先を進んでいる印象がしました。江戸とオランダとのマジックの関係があれば面白い思ったのですが少しだけでした。それでも、少し関わりが見つかっただけでも興味がひきつけられます。今回の調査で、どのようにして魔女の妄想が作られたのかが少し分かりかけた気がします。しかし、魔女狩りに関してはまだまだ分からないことも多いそうです。興味のある方は、今年発行の岩波新書の池上俊一著「魔女狩りのヨーロッパ史」をまず読まれることをお勧めします。

参考文献

1584 Reginald Scot Discovery of Witchcraft

1584 J. Prevost La Premiere partie des subtiles et plaisantes invention

1612 Sa: Rid The Art of Jugling

1784 花山人 仙術日待種

1938 阿部徳蔵 とらんぷ とらんぷのゲームと詐術 とらんぷと奇術

1970 森島恒雄 魔女狩り 岩波新書

1973 Norman Cohn Europe’s Inner Demons

1978 浜林正夫 魔女の社会史 未来社

1983 浜林正夫・井上正美共著 魔女狩り 歴史新書

1993 スティーブン・ミンチ ザ・マジック 16号17号18号 河野瞳訳

1997 Stephen James The Annotated Discovery of Witchcraft Booke XIII

1998 J. Prevostの英訳版 Clever And Pleasant Inventions

1999 ノーマン・コーン 魔女狩りの社会史(1973年の本の山本通訳)
2022年にはちくま学芸文庫より再版

2002 Ton おのさか Ton’s ニュースレター「プレジャー」No.1と4

2006 石田隆信 第24回コラム 初期のコインマジック

2010 松山光伸 日本の手品史 長崎オランダ商館での手品接待

2016 石田隆信 第73回コラム カップアンドボールの歴史の意外点

2024 池上俊一 魔女狩りのヨーロッパ史 岩波新書


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