ステッキの頭からウサギの細長い耳が出現し、ステッキの上へ引き抜くとウサギが出現します。この独創的マジックを演じたのがフレッド・カップスです。1955年に2度目のFISMグランプリを獲得した際のオープニングアクトで、最後には塩が出て止まらなくなる演技で終わっています。フレッド・カップスといえば塩の演技だけでなく、スモーク(煙)、コイン、紙幣マニピュレーションなどのステージ演技が有名です。FISM1950年、1955年、1961年の3回ともステージでグランプリを獲得しています。しかし、クロースアップやパーラーの演技でも有名です。最近ではネット上でカップスのカップ・アンド・ボールをフレンチ・ドロップ店長の武宮将さんが演じて話題になっています。また、最後に巨大コインが出現するチャイニーズ・コイントリックや、コルクが容器から飛び出してヒョコヒョコ動いてダンスしたり浮遊するのもカップスの代表的トリックです。パーラーの演目ではチャイニーズ・ステッキ、サイドウォークシャフル、ホーミングカード、紙幣による11枚カードトリックも有名です。
私は1976年の東京PCAM大会に参加しカップスのステージ演技を観て、そのすごさに衝撃を受けました。また、会場の廊下で気さくに見せてもらったコインマジックが、見たこともない驚きの現象で、そのことに圧倒されただけでなく人柄にも感激しました。今回はカップスの各トリックの元になる作品と、改良されてどのように変化したのかに重点をおいて報告させて頂きます。
1988年には”Fred Kaps”のタイトルの52ページの冊子が発行されています。資料収集編集はFreddie Jelsmaで、冊子編集はStephen Minchが担当しています。その中で3回の受賞時の演技が報告されていました。1回目は1950年で、意外な時に意外な場所から多数のステッキを出現させています。その結果、カップスといえばステッキ・プロダクションのイメージが強くなったそうです。2回目の1955年は、ステッキを持って登場したので今回もステッキの演技と思わせて、冒頭に報告したステッキからウサギの出現で驚かせています。次に片手でのシルク・カラーチェンジなどのシルクマニピュレーション、カード・マニピュレーションにジャグリング的なフラリッシュが加わった演技が続きます。その中で意外な時にステッキが数回出現します。火がついたロウソクのプロダクションに続き、塩が出続けて止まらなくなる演技で終わります。1961年の3回目は、新聞紙に包んだステッキの消失で始まり、火のついたロウソクが意味もなく出現しポケットへ入れます。シャンペンボトルからシャボン玉が吹き出し、1つの透明なボールが飛び出して、そのボールを使った演技を続けます。紙幣マニピュレーションを演じますが、これまでに何度か意外な時に火のついたロウソクが登場するので驚くアクションが加わります。最後にはたくさんのロウソクに火がついた飾り燭台を出現させていました。
カップスの場合、毎回、最初にステッキを持って登場し、それを使った演技から開始されているのが印象的です。時代変化では、1950年も1955年も意外なところでステッキが登場するので驚くアクションがありますが、それが1961年では火がついたロウソクの突然の出現に変わっていました。また、1950年代はカードマニピュレーションを結構取り入れていましたが、1961年では紙幣マニピュレーションに進化しています。そして、火がついたシガレットも様々なところで使っていたのが、1960年代後半からはスモーク(煙)の演技に変わり、カップスの重要な演目の一つとなります。カップスといえば、塩とスモークと紙幣の演技の印象が強くなるほどです。コインの演目も加わり、1976年の東京PCAM大会では最も完成したスタイルの演技を披露され、圧倒させられることになります。
フレッド・カップスの塩の演技は1955年のFISMで演じられ、アメリカでは1964年のTV番組「エド・サリバンショー」でもホーミングカードと共に演じられました。チャイニーズ・ステッキは1963年の「エド・サリバンショー」で演じられています。この2つの演技が話題になると、それらはロイ・ベンソンのマネをしていると陰口をいう人も現れたそうです。しかし、これらの演技は若い時に師匠でもあるハンク・バーメイデンから教わっていたことが分かりました。若い頃のカップスにはロイ・ベンソンとの接点がなく映像も見ることがなく、師匠は世界中を巡っていた関係でベンソンの演技も見ていたと考えられます。その後、カップスはベンソンと会う機会があり、親しくなっています。このことを報告していたのがジョン・フィッシャーです。彼は2004年9月のMAGIC誌に8ページにわたりカップスの記事を掲載していました。
フィッシャーは1976年英国BBCの70分マジックショーでカップスを中心ゲストとして招き、1978年の番組ではカップス・マジックショーを企画担当しました。また、逆にオランダのカップスの家を訪問し、本人から話を聞く機会があったことにより、意外なことがいろいろ分かったそうです。
その記事の中で最も驚いたのが、上記のロイ・ベンソンの2つのマジックのことでしたが、それ以外ではAde Duvalの親指を使ったスモーク(煙)の演技についても興味深い内容でした。カップスはこの煙の演技をしたかったそうですが、デュバルの印象が強いのであきらめていました。デュバルはシルクの演技で有名なマジシャンで、1955年に引退し1965年に亡くなっています。1960年代後半には遠慮する必要もなくなり、カップスの演目に加えますが大幅なアレンジを加えています。
デュバルがしゃべりながら演じていたのを、カップスはパントマイム演技に変えています。また、カップスが新しい演目を考えている時に、チャニング・ポロックからハトの演技を加えることを提案されます。しかし、これはポロックの印象が強いので受け入れませんでした。つまり、誰かの印象が強い演目は避けていたわけです。ロイ・ベンソンのマネをするなどありえないことでした。
カップスはロイ・ベンソンのことを知らず、マネをしていないので、二人の演技には大きな違いがありました。チャイニーズ・ステッキの場合、ベンソンは演技途中で2つのステッキの手前側に紐が通っているのを見せて切らせています。そして、最後に3本目のステッキを出して、3本による演技をしばらく見せています。カップスは切らすことのないシンプルな演技ですが笑いが起こっています。そして、最後に上着の内側から秘密の3本目を取り出し、口で紐を引っ張ると、他のステッキの紐が短くなって終わっています。つまり、3本目を取り出し意外なクライマックスにして、あっさり終わっているわけです。カップスと全く同じように演じても思っているほど受けないかもしれません。カップスは気品があって紳士的であるのに、コミカルな演技が面白いのだと思います。
塩の演目は、1930年代にギミックが登場して次々と発展した歴史があります。バーノンが1938年頃のステージで演じたことでも知られています。これをロイ・ベンソンがバーノンから他の演目とトレードして教わり、ベンソンの改良を加えて代表的な演目となります。
ベンソンの場合、そこそこの大きさの塩ビンから大量の塩を左拳に流し入れ、左手を開くと消えています。右拳から塩が流れ落ちますが止まりません。腕時計を見てはあくびをして、また腕時計を見て、やっと落下が終了します。カップスはもっと大量の塩が流れ落ちるだけでなく、それを強調する印象を与えています。カップスの大きい手が重要な要素ですが、大きい特別なギミックも使うことにより可能になったともいえます。そして、最大の特徴が音楽との融合です。曲が終了しても塩が流れ続け、曲を再開してもらって終わっても流れ続けたままで困り果てる部分が山場となって演技全体が終了します。最初に取り出す塩ビンはそれほど大きくなく、左拳に塩を落とし入れようとしますが全く塩が出てきません。蓋をしたままであったことに気がつくのですが、そのコミカルタッチもカップスらしさが表れていました。この蓋をしたままの塩ビンのコミカル操作は、オープニングのステッキを巻いた新聞紙に魔法の塩をかける時にも使われています。全体が細かく計算された演技であることにも面白さを感じます。
カップスのハンカチとコインの演技は天海師との関係が大きいことが意外でした。1976年のPCAM東京大会では、カップスの塩もスモークも紙幣もジャンボコインの演技も強い衝撃を受けたのですが、ハンカチとコインが特に私の記憶に残りました。右手のコインを左手で四隅を持ったハンカチに向けて投げる操作の後、ハンカチの中へコインが落ちて入ることがハッキリ分かりました。これが数回繰り返されます。日本のTVで放映されたのですが、2004年に発売されたカップスのDVDやネットでのYou Tubeにも、その演技を見ることができないのが不思議でした。
1983年発行のバーノンのビデオ”Revelations Vol.5”の冒頭で、このマジックはロンドンでフレッド・カップスが興味を持ったので教えたと話しています。それをカップスはうまくアレンジして、素晴らしい演技に完成させたとほめたたえていました。そして、これはバーノンが60年ほど前に考えたものであることも話しています。1983年の60年前といえば1920年代前半になります。また、カップスに指導したロンドンの年数は、1955年だと考えています。バーノンが初めてロンドンでレクチャーを行い大きな話題になります。その時にカップスや師匠のバーメイデンはバーノンと同じホテルに宿泊し、その後、オランダのレクチャーへ同行しています。
ところで、天海師との関連性ですが、このマジックが1987年に発行されたバーノンの”The Vernon Chronicles Vol.1”に”Silk and Silver”として解説され、天海氏からはいくつもの提案を受けたと報告されていました。そして、バーノンがカップスに教えたことも書かれています。バーノンが戦後に天海師と会ったのは1954年のシカゴの大会です。この時にバーノンは、天海パームを使ったカラーチェンジや天海のフライングクイーンの改案を見せています。それだけでなく、バーノンのハンカチとコインのマジックも見せてセッションしていたと考えています。天海の方法が1934年のスフィンクス誌9月号に発表されていたからです。
天海の解説では、あらためたハンカチの4隅部分を持つて袋状にすると、1枚のコインがハンカチの底に落ちて出現したのが分かる現象です。解説には12のイラストが使われています。バーノンが興味を持ち、天海の実際の操作を見せてもらい、バーノンの方法のアドバイスを受けていたことが想像できます。このカップスの演技映像が日本以外では見つからないのに、1976年と79年の日本で演じられたのは、天海師への敬意と感謝を含めて演じられたとするのは考え過ぎでしょうか。
ところで、カップスがこの演目に興味を持ったのは彼のクロースアップのグラスへ飛行する4枚のコインとの関係が大きいと思います。1954年のLewis Ganson著”Routined Manipulation Finale”に「コイン&グラス・ルーティン」として解説されています。これをステージで演じるためにグラスをハンカチに変えて、ハンカチの動きでコインが飛び込んだことが分かるようにしたわけです。日本の本ではグラスを使う方法が、1974年の二川滋夫著「コイン奇術入門」にカップスの方法を元にした作品として解説されています。グラスとコインの発表、天海とバーノン、バーノンとカップスが会うのが、1954年から55年に集中しているのが面白いと思います。
コルクが容器から飛び出してダンスして浮遊する演技で、コルクがヒョコヒョコ動いてダンスするので日本の「ヒョコ」に近い状態です。1971年に英国のケン・ブルックから発売され、Genii誌8月号には1ページかけた広告がありました。1972年7月にPCAM大会がハワイで開催され、カップスがゲスト出演していますが、会場内をカップスがこの商品を演じながら見せ回っていたので大きな話題になったそうです。
1976年に松旭斎天洋著「奇術と私」が発行され、その後部に「ヒョコについて」2ページほどの掲載があり、フレッド・カップスのコルクの奇術はヒョコの初歩の動作にすぎないと書かれていました。天洋師はゲストとして1972年のPCAMハワイ大会に参加し、カップスのコルク奇術も見られたようです。天洋師と交流のあった大阪の三井晃天坊師のヒョコの芸では、お椀に入れた紙玉が飛び出し、蓋をしても蓋をはねのけて飛び出し、ヒョコヒョコと跳ねながら動き回るそうです。2本の割り箸をX状に結んで歩かせたり、台の上のタバコがダンスした後、数メートル飛ばしたりもします。しゃべりながらの舌の動きが重要で、習得にはかなりの月日がかかるとのことです。
カップスの場合は、手に持った容器から飛び出したコルクを手の上だけでなく、空中でダンスさせています。空中では少しの揺れでコルクがヒョコヒョコ動いてくれますが、台の上で動かすのは難しいと考えられます。ヒョコの特徴の1つが、生き物のように台の上で動くか飛び跳ねさせ、空中に浮かすことがありません。空中を飛ぶのは蝶の芸の場合です。
カップスの方法は、彼自身がドイツのBruno Henningの方法を元にしたと報告しています。Brunoはアマチュア・コメディーマジシャンでJoroの芸名を持ち、1956年にフローティング・コルクを考案しています。彼の方法は分かりませんが、浮揚だけでダンスがない可能性があります。1973年にドイツのBracoが150ページほどの本を発行し、ステージからクロースアップまでの多数のジャリを使った演目をドイツ語と英語で解説されています。そこにも容器からコルクが飛び出して空中に浮かせる解説があるのですがダンスがありません。また、カップスのように、切れ目のない輪によるあらため操作もありません。ジャリは口ではなく耳で止めていました。これとBrunoの方法との関わりは分かっていません。
ところで、1980年代には客から借りた紙幣を丸めて浮かす現象が流行します。これは浮かすだけなので楽ですが、客の紙幣を使っているので違った意味での大きな効果がありました。日本のヒョコのようにヒョコヒョコ動かすのはたいへんだと思います。
大阪の三井晃天坊師の芸は天輝氏と松旭斎滉洋師匠に受けつがれ、その後、天輝氏の息子さんが少し演じていただけと思います。息子さんが大阪高島屋の奇術用品売り場で、横にある胸の高さの棚にタバコを置き、起き上がらせてヒョコヒョコ動かしていました。実際のヒョコを見たのはそれが最後です。路上で紙の人形がダンスするのは、別の人の協力が必要で全く別物です。日本では見る機会がなくなったヒョコの芸ですが、それに近い動きをカップスが演じていたことが驚きです。カップスが演じているので特別の味わいがあり、カップスの素晴らしさを感じさせられます。カップスのコルクの商品に関しては、ネット上では「マジェイアの魔法都市」の中で、本では2005年の麦谷眞里著「クラシックマジック入門事典」の146ページに紹介されていますので参考にされることをお勧めします。
カップスのカニバルカード(人喰いカード)の方法は、どこにも解説されていないだけでなく、カップス自身が演じている映像もありません。しかし、日本では1972年7月末に来日されたマイク・スキナーが8月2日大阪レクチャーの後で、カップスの方法として特別にプライベートで見せてもらえたそうです。このことは1994年の松田道弘著「クロースアップ・カードマジック」に報告されています。
間違った年数の1970年と書かれていましたが、1972年が正しい年数です。つまり、カップスは1972年前半には考案されていたことになります。興味深いことが2008年発行のL&L社DVD「カニバルカード」です。7名のマジシャンの方法が収録されていますが、3名がカップスの方法を元にした内容になっていました。タマリッツ、マイク・スキナー、マイケル・アマーの3名で、それぞれに違った味わいがあります。
中でも、シンプルでスマートに演じられたマイク・スキナーの演技がカップスに近いのではないかと思いました。特にチューイング・ムーブはマイク・スキナーだけ本来のエンド側から入れて食べさせますが、他の二人はサイドから入れて呆気なく食べ終わっています。
タマリッツはアスカニオ・スプレッドを表向きや裏向きでダンスしているように扱っていたのが楽しくて印象的です。1972年7月初めにハワイで開催されたPCAM大会にカップスとピーター・バイロもゲストとして出演されました。二人ともカニバルカードに関わりがありますので、お互いの方法を見せ合ったのではないかと想像しています。その後、ハリウッドでマイク・スキナーに会った時にカニバルカードを見せたことは間違いなさそうです。
歴史に関しては、2010年の第44回フレンチドロップ・コラム「カニバルカードの歴史と謎」で詳しく報告し、同年のToy Box VOl.10では32ページも使って詳しすぎる内容で報告しました。ここでは今回に関わるポイントだけを簡潔に報告することにしました。
現在よく知られているレギュラーデックを使う方法は1971年にマット・コリンにより発表されます。4枚のKをカニバルとして用い、客のカード3枚が1枚ずつカニバルカードに食べさせて消失させる現象です。印象的な食べる操作は、ピーター・バイロのチューイングムーブを使っていると書かれていました。
消失時にはダブルバックルを使っていますが、実演ではアスカニオ・スプレッドを使うとも書かれ、その後の多くの作品でもアスカニオ・スプレッドが使われるようになります。なお、このカニバルカードの操作の元になる作品はエルムズリーの "Repulsive Aces" ですが、その当時はまだ未発表の作品でした。一部のマニアにしか知られておらず、マット・コリンやピーター・バイロはキャッスルのロン・ウィルソンから教わっていました。
フレッド・カップスは上記の方法にガルシアのApex Ace を加えています。3枚を消失させた後、4枚のカニバルカードもデックの上へ置くと共喰いして1枚ずつ消失し、デックを広げると表向きの4枚のカニバルの間に客のカード3枚がサンドイッチされて現れます。Apex Aceは1962年のハリー・ロレイン著「クロースアップ・カードマジック」に解説されています。
1971年には、4枚のカードの側面が口のように開きカードを食べるチューイングムーブが、ピーター・バイロ考案として発表されます。しかし、1976年にウェズリー・ジェームズの方法が解説された時にピーター・バイロ考案を否定し、原案のリン・シールスの時から使われていたと主張します。また、彼の1989年の”Stop Fooling Us”の冊子では、チューイング・ムーブはマルロー考案の可能性があるような記載になっていました。しかし、これはウェズリー・ジェームズの大きな間違い報告でした。
原案の解説を読みましたが、チューイングムーブの解説がないだけでなく、マルローの名前があってもそれは別のギャグ操作でした。また、マルローの考案であればマルロー派の代表者でもあるRacherbaumerが書かないはずがありません。Racherbaumerが発行した文献の1971年、76年、81年の全てにチューイング・ムーブはピーター・バイロの名前をクレジットしていました。ピーター・バイロの可能性が高いのですが確定できていない状態です。
しかし、マルローでないことだけは確かです。カニバルカードの原案は、1959年にリン・シールスが発表したパケットマジック商品です。プロットは面白いのですが実践的ではないために購入した人が少なく、解説書を持っている人も少なかったのではないかと思います。ジェイムズは原案の解説書を読んだ記憶があるだけで、その後は見ていないようです。
ところで、驚いたのが1996年のロベルト・ジョビー編集「カード・カレッジ第3巻」(92年ドイツ語版、06年日本語版発行)です。カニバルカードが解説されますが、その最後の”Final Thoughts”ではカードを曲げて口の形を作ったのはエドワード・マルローであると書かれていました。ウェズリー・ジェームズの報告をそのまま受け入れて、間違ったクレジットにしてしまったようです。前回の「カード・アクロス」のコラムでも、ジョビーは本来のクレジットすべき人物を書かずに奇妙なクレジットをしていたことを思い出します。大きな影響力がある著者ですので、歴史やクレジットはもっと慎重であってほしいと思いました。
サイドウォークシャフルの原案者は英国のジョー・ライディングで、トリックカードを使う改案にしたのが米国のマーティン・ルイスです。それをさらに改良し、英国のケン・ブルックから商品化した「フレッド・カップスのサイドウォークシャフル」が世界的な大ヒット商品となります。
サイドウォークシャフルについては2021年のコラムで詳細に報告していますので、ここではカップスに関わりのある部分を中心に報告することにします。最近の文献のサイドウォークシャフルの歴史は、1985年発行のマーティン・ルイスの父親のエリック・ルイスが書いた”Martin’s Miracles”を元にしていることが多いようです。そこでの説明は間違っていたり奇妙な記載がありました。1980年にカップスが亡くなり、1983年にはケン・ブルックが亡くなっていますので自由に書けたのだと思います。
まず最初の間違いが1971年に始まったと書かれていたことです。正しくは1972年です。ジョー・ライディングの商品がケン・ブルックから発売されたのが1972年であるからです。2枚の同じ絵札と2枚の同じ字札を使った商品です。また、1985年の本では、ジョー・ライディングとマーティン・ルイスとでは効果も方法も全く違うと書かれていました。トリックカードを使うので方法が違うのは当然ですが、効果は全く同じと言ってもよいほどです。なぜ違うと書いたのかが不思議です。そして、重要なテクニックとしていずれもハーマンのフラッシュトレーション・カウントが使われているのですが、マーティン・ルイスの本ではジェニングスのAll Alikeムーブと書かれていました。いろいろ調べた結果、やはり、ハーマンのフラッシュトレーション・カウントをクレジットすべきとの結論になりました。
ケン・ブルックはジョー・ライジングの作品を商品化しカップスに見てもらい、操作方法にカップスの改良を加えて解説し、1972年9月末の英国の大会でのヒット商品になります。これをマーティン・ルイスが購入して2枚をトリックカードに変更し、Aとブランクカードの現象に変えたのがサイドウォークシャフルです。1973年5月号のLinking Ring誌に1回だけ大きく広告が掲載されていました。カップスは1973年の渡米時にマーティン・ルイスに会っており、その時にこの商品をもらっています。
1974年秋に英国のケン・ブルックに会った時に、カップスが改良したサイドウォークシャフルを見せると気に入られます。12月に会った時に具体的な商品化の話となり、1975年に「フレッド・カップスのサイドウォークシャフル」として販売され、これが大ヒット商品となります。ステージでも演じられるように大きいサイズにして、書き込みできるようにプラスティックコーティングも加えられ、フラッシュトレーションカウントなどの技術面でも改良が加えられます。それまでのマーティン・ルイスの商品はそれほど売れていなかったと思いますが、カップスの商品の人気により、マーティン・ルイスの商品もよく売れたと思います。
ジェンボチャイニーズコインに関しては、カップスが1973年にマーティン・ルイスと会った時にジャンボコインの手順を見せてもらっています。これは1985年のマーティン・ルイスの本に解説されています。彼の方法はイスに座って演じ、周りを囲まれると演じることができません。1976年末にケン・ブルックから発売されるカップスの方法は、立って演じることができ、周りを囲まれていても行える工夫が加わっています。そして、最後には特別製巨大コインの出現に衝撃を受けます。これは1994年発行の”Ken Brooke’s Magic Place”の本に解説されています。カップスが演じている映像がどこかにあると思うのですが、まだ見ることができていないのが残念です。
この大会に参加する前から関西の重鎮のジョニー広瀬氏よりカップスはすごいと聞かされていました。1972年のPCAMハワイ大会でのカップスの演技を見られていたからです。私はカップスがどのような演技をするマジシャンであるのか知らず、そのすごさが分からない状態で大会に参加しました。
木曜から日曜までの4日間の開催で、2日目の夜のステージにカップスが登場しました。背広を着用され、ホーミングカード、サイドウォークシャフル、紙幣での11枚カードが演じられます。素晴らしいのですが、広瀬氏が言われるほどのすごさが感られませんでした。3日目の午前にカップスの特別レクチャーがあり、トピットのレクチャーには感激しましたが、それ以外はまずまずと言った感じです。それらよりも、廊下で気軽に見せてもらえたコインマジックが強烈でした。カップスが廊下を歩いていたので、誰かが話しかけて何かを見せてもらえる状況でした。カップスは壁に背中が当たる状態にされ、私はすぐに駆け寄ると、数名が集まってきたので押され、カップスの右隣から見る体制になりました。
カップスは腹の前に両手を持ってきて、掌を上向けて両手の中指の先が当たるぐらいに近づけて、1枚の銀貨だけが掌上にある状態にしています。手から手へコインを投げ移して、両手の掌が見えている状態です。左掌上のコインを右指先で取り上げて裏と表を見せ、左掌上へ投げると銅貨に変わっていました。
それを両手の掌上間でのトス操作を繰り返し、その後、左指で取り上げて裏表を見せた銅貨を右掌上へ投げると穴があいたチャイナコインに変わっていました。そして、また、同様な操作で銀貨に戻しています。大きなカップスの両手の掌上が小さなテーブルのようであり、右から左、左から右へ、コインのトス操作の繰り返しの中でコインが変化していました。横から見ても全くタネが見えませんが、小指の状態から天海ピンチが使われいると思いました。想像がついたのがそれだけで、指先のコインの表裏を見せる時には手背側も掌側も何もない状態であったのが不思議でした。
1980年代になってカップス・サトルティーの存在が知られ、そのことにより方法の見当がつきました。なお、その後、バーノンによるマリニの本に解説されていることも分かり、カップス・マリニ・サトルティーと呼ばれるようにもなっています。マリニは1942年に亡くなっています。カップスも1980年に亡くなっていることと、有名にしたのはカップスですので、カップスの名前も残したままにしているようです。
3日目の夜のステージショーにもカップスの出演ですが、前日の演技を見ていますの過度な期待をしないことにしました。しかし、この時の演技の素晴らしさに衝撃を受けました。前日とは違う燕尾服で登場し、まず、そのかっこよさだけでもトップスターの気品がありました。
テクニックも演技力もすごいのですが、予想外のことが起こるコミカルなタッチが別格の面白さです。このようなスパーマジシャンが存在することに感激しました。ジョニー広瀬氏がすごいと言われたことが納得できました。このショーが始まる前にカップスのリハーサルを行なっているので、見てもよいとのことで見に行きました。
全体の流れのリハーサルだと思ったのですが、楽団と曲を合わせるリハーサルでした。しかも、同じ部分を何度も何度も繰り返してリハーサルしていました。15分ほど経過しても全く変化がないので会場から出ることにしました。このリハーサルの意味が夜のショーになって理解できました。塩が拳から流れ落ち、止まらなくても曲が終わり、困り果てて曲を再開してもらっても流れ続け、また曲が終わっても流れ続ける部分で使われていました。日本でトップクラスの楽団でも、その演技部分を理解してもらうのが大変で、タイミングを合わせるのも大変であったと思います。しかし、カップスの演技の山場として最も重要な部分であったことが分かりました。
2024年9月16日にMN7特別例会「蓮井ビデオコレクションの研究」としてフレッド・カップスの秘蔵映像が上映されました。そのことが今回のコラムをまとめるきっかけとなりました。ビデオ時代に蓮井氏が世界からコレクションされた映像を綿田氏によりDVD化され、その中のカップスの映像を中村氏の編集で見させて頂きました。
講演では小野坂東氏による1976年と79年のカップスがゲスト出演した大会の裏情報が大変興味深く、中村氏によるカップスの研究報告も大変参考になりました。また、配布資料にはYou Tubeで視聴できるカップス映像の一覧だけでなく様々な資料が掲載され、2004年MAGIC誌のジョン・フィッシャーの長文記事の加藤英夫氏の翻訳があり貴重な資料となりました。
カップスのYou Tube映像は検索すれば多くの映像を見ることができます。Gypsy Curseをハーマンに見せている映像には驚きました。Gypsy Curseはピーター・ケーンの人気パケット商品ですが、本来の方法を知っているマニアが最後に仰天してしまいます。また、途中でハーマン・カウントを使う必要がありますが、表向きオーバーハンドシャフルに変えて意表をついている面白さがあります。
カップスのマジックについては、ホーミングカードや1978年考案のカラーチェンジナイフなど取り上げるべき演目が多数ありますが、長くなりますので今回はここまでとさせて頂きます。カップスに関しては、ネット上では「マジェイアの魔法都市」の中で、冊子では2020年のPri-Ala Magic Magazine No.33の中にも紹介されていますので参考にされることをお勧めします。最後にフレッド・カップスについてを文献も含めて年数順に報告させて頂きます。
1926 6月8日誕生 オランダ、ロッテルダム、ユトレヒトのBongers家2番目息子として
1935 9歳の時に景品でマジック道具と本をもらいマジックの虜に
それまでにも床屋主人のPiet Vershragenから奇術を
1940頃 Valdiniの芸名で学校や街の公民館でマジックを演じる
中学教師や父親からマジックをやめるよう忠告を受ける
1941 アムステルダムの絵画アカデミーに入学しValdini名で公演
第2次世界大戦が始まり兵役としてオランダ領であったインドネシアへ
そこでは軍の活動以外にマジックの慰問も 芸名をミスティカに変更
1946 アムステルダムのコンベンションに参加 カードのギャンブル手順
1949 Henk Vermeydenがエージェント、監督、コーチとなる
1950 バルセロナFISMグランプリ受賞 ステッキを中心としたアクト
1950年12月1日より名前をフレッド・カップスに変更
1952 床屋主人ピエットの娘ネリーと結婚 その後二人の娘が誕生
1954 Lewis Ganson著”Routined Manipulation Finale”にコイン&グラス・ルーティン
1955 5月1日にロンドンでバーノンのレクチャー 同ホテルにVermeydenと共に宿泊
その後、バーノンのオランダ・レクチャーへ同行
1955 アムステルダムFISMで2回目のグランプリ獲得 ステッキの先からウサギの出現、
マイクロフォンからカナリア、カードマニピュレーション、ソルトトリック
1961 ベルギー・リュージュFISMで3回目のグランプリ獲得
ステッキ消失、シャボン玉、紙幣手順、点火キャンドルプロダクション
1963 1月6日エド・サリバンショー出演 チャイニーズステッキ 白黒映像
1964 2月9日エド・サリバンショー出演 ホーミングカードと塩 白黒映像
1965 It’s So Simple – Fred Kaps CD
1971 ケン・ブルックからダンシング・フローティング・コルク販売 Genii 8月号に広告
1972 7月2日~5日PCAMハワイ大会にゲスト出演
1975 ケン・ブルックよりフレッド・カップス版サイドウォークシャフル販売
1976 8月開催のPCAM東京大会にゲスト出演
二川滋夫訳「フレッド・カップス・レクチャー・ノート」発行
1976 11月6日英国TV The Parkinson Magic Showに出演 クリスマスに放映
1976 Fred Kaps Chinese Coin Routine Giant Chinese Coin Climax 販売
1978 英国TVにてFred Kaps Magic Show
1979 12月力書房主催の東京会館インターナショナルマジックコンベンション出演
1980 7月23日死亡(54歳)
1981 The New Magic Vol.20 No.1 池田聖 Fred Kapsについて(5ページ)
1981 The Ken Brooke Series Number 4 サイドウォークシャフル解説
1981 The Ken Brooke Series Number 5 ダンシング・フローティング・コルク
1988 Fred Kapsのタイトルの冊子発行(52ページ)
1993 Scotty York’s The Color Changing Knives冊子 Fred Kaps未発表手順
1978年9月末から3週間アメリカScotty York宅滞在時に手順考案
1994 Fred Kaps Purseの冊子発行
1994 Fred Kaps Currencyの冊子発行
1995 Fred Kaps Cups and Bollsの冊子発行
2004 Fred Kaps Seeing is believing! DVD
2004 MAGIC誌 9月号 John FisherによるFred Kapsの記事 8ページ
2020 Pri-Ala Magic Magazine No.33 Fred Kaps “Don’t Take It For Granted”
2021 Fred Kaps, Master Magicianの本発行