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コラム

第112回 ジョニー広瀬さんを偲んで(2023.09.14up)

はじめに

関西を代表するマジシャンであるジョニー広瀬氏が2023年8月26日に亡くなられました。享年75歳。吉本興業NGK劇場の専属プロマジシャンとして20年近く活躍されました。それだけでなく、多くのプロマジシャンやマニアを指導され、関西のマジック界の発展に多大な貢献をされた重鎮でした。

2022年3月27日に「ジョニー広瀬 奇術人生55年」の出版記念パーティーが行われました。原稿やパーティーの打ち合わせで、広瀬氏を囲んで10名ほどが毎回集まり、出版記念パーティー後も毎月1回は広瀬氏を囲む会として集まりを継続し大いに盛り上がりました。ところが、2023年2月後半に自宅内で尻餅をつき歩行が大変になり入院され、退院数ヶ月後には肺炎を発症し再度入院されていました。

3月頃には癌であることが診断されていたとのことです。もともと1~2年前から血液異常の検査と薬の調整のため定期的に入院を繰り返されていました。それでも2023年2月までの「広瀬氏を囲む会」には、ご自身で車を運転してマジック道具も持って参加して下さいました。いろいろとマジックのお話が伺えたり指導して頂けて楽しい時間でした。まだまだお会いできると思っていたのに突然の悲報に驚いています。

「ジョニー広瀬 奇術人生55年」の著書には広瀬氏の16作品だけでなく、思い出としての奇術人生の歴史や9名の寄稿文、そして、Mr.マリック氏からの「西のジョニー 東のマリック」も掲載していますので是非読まれることをお勧めします。今回のコラムでは、その著書を参考にしつつ、少し違った内容で報告させて頂きます。

圧倒的存在の関西を代表するジョニー広瀬氏

日本で800席以上の劇場に20年近く出演を継続したマジシャンはジョニー広瀬氏だけではないかと思います。その劇場がNGK(なんばグランド花月)で、新築オープンしたのが1987年11月です。1990年には1年間客演され、10月20日には「ジョニーズ・ワンダーナイト」のリサイタルを成功させています。そして、1991年からNGK所属マジシャン第1号として20年近く継続出演されました。

また、大阪で広く名前が知られるようになるのは、1989年朝日放送TVの人気番組「ナイト・イン・ナイト」の出演です。毎週1回1年間レギュラー出演されています。生放送で毎回新しい内容で演じられ、知識と技術と経験がある広瀬氏でなければ続けることができなかったと思います。桂三枝(現在の桂文枝師匠)をはじめ10名ほどが周りを囲み、後方の数名は立って演技を見る状態でした。不思議で面白ければ大いに盛り上がり、不思議さが少なかったりタネが分かると突っ込まれる恐れもあります。全く気が抜けません。半年以上経過した頃からマニアに会えば面白いアイデアの情報を求めていました。

広瀬氏のレパートリーは幅広く、クロースアップからサロン、ステージではカードマニピュレーションやハト出しから中華セイロ、そして、イリュージョンまで演じられていました。特に炎と宝石のプロダクション、ファイヤーシンブル、ミラーゾンビボール、剣と巨大ミラーボールの出現の連続した演目は圧倒的です。剣の柄に巨大ミラーボールを取り付けると回転し、そのミラーボールにライトを当てて会場内をキラキラ輝く魅惑の世界に変えていました。

2002年にはハンガリーに招かれ、サーカス会場で上記演技とイリュージョンを演じられました。天井が高く、円形の広い室内で演じるのでファイヤー・マジックにとっては最適です。しかし、360度が客席のためにたいへんであったと思います。

2018年にはマジックランド・ホームページのスピーカーズで、広瀬氏が映像に登場して各種質問に答えられていました。その中で、NGKシアターに20年近く出演する中で改良を加え続け、それぞれの演目を納得できるものに完成させた話をされています。特にファイヤーを使った上記手順がその代表のようでした。

ジミー忍弟子時代と日本奇術連盟ディーラー時代

高校時代に駒田忍(ジミー忍)氏との出会いがプロマジシャンへのきっかけとなります。授業後や休日は大阪阿倍野の近鉄百貨店テンヨー奇術売場のジミー忍氏の手伝いをされていました。ジミー忍氏が1965年にテンヨーを退社し、プロとして活躍するため東京へ行きますが、広瀬氏も1966年には資金を貯めて東京へ行きジミー忍氏の内弟子になります。ところが、結婚されて赤ちゃんがいる家庭の内弟子が申し訳なく、数ヶ月で感謝の手紙を残して大阪へ戻っています。

1973年にSMCのマジッククラブが毎月開催された時に、そのマジックはジミー忍氏はこのような見せ方をされていたと教えて頂いたことがありました。面白いアイデアを持っているマジシャンだと感心していました。しかし、ジミー忍氏との関係についてはほとんど語られることがありませんでした。

今回の「ジョニー広瀬 奇術人生55年」の中では、お二人の関係のことが詳細に書かれていてたいへん参考になりました。ジミー忍氏は名古屋の松浦天海氏の影響を大きく受けていたことが分かり、教わったマジックをそのまま演じるのではなく、新たな工夫を加えていたことが想像できます。これも石田天海氏の考えが受け継がれてのことだと言えます。広瀬氏も見たマジックに工夫を加えることが当然の状態で、天海氏やジミー忍氏の考えが受け継がれていると思いました。

大阪に戻った後は少しの間だけ保田春雄とドラゴン魔術団で手伝いとアルバイトをされますが、1967年には松坂屋百貨店の日本奇術連盟売場でアルバイト勤務されています。当時、学生服を着た高校生の深井洋正氏が店を訪れており、今は何を練習しているのかと聞かれ、ハト出しと答えると、ハト袋を持っているかと聞かれたのでたまたま持っていたハト袋を取り出したところ、広瀬氏がそのハト袋を取り上げて、手を加えて特別な状態に変えてしまったので驚いたそうです。この状態が実践で使えるハト袋の秘密だと教わったことが強く記憶に残っているそうです。

翌年の1968年には日本奇術連盟職員として阪神百貨店売場を担当するようになります。1969年7月に日本奇術連盟発表会が東京で開催され、ステージ上に7名のディーラーが並んで紹介されることになります。奇術界報にその7名の写真がありますが、広瀬良雄(ジョニー広瀬)、大嶽重幸(スピリット百瀬)、松尾昭(Mr マリック)、大西敏夫(パピヨン大西)の4名が写っています。その年の7月で4人とも20才か21才の同世代で、その後のよきライバルとなり、マジック界に大きな影響を与える存在となります。この時に小野坂東氏に会われ、その後も深い結びつきが継続されることになります。

1973年にマジッククラブSMCの設立

売り場を訪れる常連客の要望により、1973年にマジッククラブのSMC(スプレンディッド・マジシャンズ・クラブ)が設立されます。広瀬氏からスライハンドマジックを中心にした指導を受け、クラブ員の交流の場となりました。私も入会しますと、広瀬氏の指導だけでなく、諸先輩からいろいろとマジックを見せてもらったり教わり、一気に急成長できたように思います。

発足時は10名ほどのクラブ員でしたが、その後徐々に増え続け20数名になっています。クラブ員の中には、その後のFISM大会で入賞することになる3名も在籍していたことがすごいことです。真田豊実(1979&82年)、深井洋正(1985年)、安田悠二(1994年)です。1978年3月4日には森ノ宮青少年会館大ホールにおいてSMCステージ発表会 ”Fantasy Night” が開催されました。広瀬氏は第1部で中華セイロ、第2部ラストではゾロの衣装で宝石のプロダクションを演じられました。この時のゲストとして松尾昭(その後のMr マリック)氏に出演して頂きました。

広瀬氏の指導はご本人が習得されているスライハンドが中心ですが、最新のマジック情報も教えて頂きました。新情報は関西だけでなく年数回は名古屋へ出向き、谷川徹雄氏(1987年死亡)宅で一夜を明かし教わることが多かったそうです。谷川氏はテンヨーの職員でカード技術の腕前は誰もが認めるほどでした。また、上記の奇術連盟のメンバーだけでなく、松浦天海氏や澤浩氏にも会われ影響を受けています。ステージ発表会後のSMC例会は休会が多くなり、広瀬氏が1990年代初めにNGKへ専属出演されるようになってからは、SMC代表を坂本哲也氏が受け継がれています。

1970年代後半の転換期と80年代後半からの飛躍期

日本奇術連盟を退職し、1977年4月にはジョニー広瀬&霞としてマジックユニットを結成されています。1978年にはゾロエンタープライズを設立し、社員として深井洋正氏と安田悠二氏が阪神と近鉄百貨店の奇術売場ディーラーとして勤務します。また、大阪ミナミに本格的マジック専用ライブハウス「マジックキャッスル」がオープンし、そちらへの出演が加わります。しかし、仕事の負担が重なり秋の終わり頃に肺結核と診断され5ヶ月間の入院となります。

面会が可能な状態になり、数名で面会しますと、思っている以上に元気で明るい状態でした。広瀬氏はマジックが出来るので療養所ではヒーロー的存在で、面会した我々にマジックを指導して頂くミニSMC例会状態になりました。1979年の退院後には和光プロダクションに所属し、マジックショー出演が中心となります。

1988年には和光プロを退社し、大阪梅田にマジックショップ「ジョニーズ」と北新地にマジックバー「沙羅」を開店させます。週末はプラザホテル最上階ラウンジでクロースアップショーの出演や、1989年には毎週1回は朝日放送TVの人気番組「ナイト・イン・ナイト」への出演が続きます。1990年には忙しさのために「ジョニーズ」と「沙羅」を閉め、NGK客演のステージ中心で活躍されています。1990年10月20日にNGKにて「ジョニーズワンダーナイト」のリサイタルを成功させ、1991年よりNGK所属マジシャン第1号として2008年まで継続出演されています。

ジョニー広瀬氏はプロでありながらマニア度の高いマジシャンです。特にクロースアップではマニアも驚くマジックを考案されています。しかし、1990年頃からはステージを中心にされ、ステージの演目の完成度を高めることに大きく方向転換されました。私も会うことがほとんどなくなりました。

2008年の脳卒中とリハビリ、2011年以降の活躍

2008年の脳卒中発症後はリハビリを行い、2011年10月には京橋花月のイベントにクロースアップマジックで出演されています。2012年には名古屋のUGM大会にもクロースアップで出演され、その後もコロナ前までコンテスト審査員を毎年継続されています。

2016年11月にはNGKにおいてジョニー広瀬氏の会「魔ジックフェスティバル」が開催され、数名のゲスト出演の後にステージ上で約20分間のクロースアップ演技を披露されました。巨大スクリーンではテーブル上を鮮明に映し出していました。全てのマジックが改良された不思議さの強いものばかりで、マニアも煙に巻かれてしまうほど圧倒させられました。

リハビリでの入院の話を伺いますと、大変ではあったのですがリハビリスタッフも驚くほどの成果をあげられていたことが分かりました。リハビリ専門書を発行するので訓練状況や成果を使わせてほしいと依頼されたほどです。また、患者さんやリハビリスタッフにマジックを見せて大いに喜ばれたことも話されていました。マジックがご本人の頑張る意欲につながると同時に、他の患者さんには心のケアになっていたようです。

2022年3月27日の出版記念パーティーにおいて

コロナ感染が問題になる以前から、フレンチドロップの庄野勝吉氏からジョニー広瀬氏の本を制作したいとの提案がありました。広瀬氏から作品原稿や写真を提供して頂き、聞き取り役は沙門零氏が担当されました。庄野氏は数名に寄稿を依頼し、著書全体を庄野氏と沙門氏が編集されました。2022年3月はコロナが完全に収束した状態ではありませんでしたが、広瀬氏がコロナ前に比べ元気をなくしているとのことで早急に本を完成させ、出版記念パーティーを開催しました。たくさんのお祝いの花が飾られた中で、出演者も観客も全員がマスクをつけた状態で行われました。

MCは下田卓司氏が行いました。SMCでは最初からのリーダー的存在で、78年のステージ発表会もMCを担当されました。出演者は本に掲載の作品や広瀬氏と関わりのある作品、それ以外の本人の自信作が演じられました。

出演順に紹介しますと最初が赤松洋一氏です。赤松氏はIBM大阪の代表ですが、広瀬氏もIBMに所属していますので赤松氏と深い交流があります。広瀬氏の「ニュー・トラベリングホール」と「カードの復活の新しい方法」と、赤松氏の最近話題のダイスマジックを演じられました。

2番目に演じた私は初期からのSMCメンバーで、広瀬氏の「アクションチェンジ」とバーグノット(天海ノット)の広瀬氏の改良した結び方を演じ、それ以外に天海氏のロープとシルクも演じました。

3人目はフレンチドロップにも出演されていますプロ女性マジシャンSuzyさんです。広瀬氏のシルクとリングの手順を華麗で鮮やかに演じられ観客を魅了していました。

前半の最後の4人目として広瀬氏が登場し3作品を演じました。「6と9のパドルトリック」、お札とペンの「インビジブルホール」と「ミステイク・ハーフカードの復活」が演じられました。

休憩後の5人目は宮中桂煥氏です。マジックを始めた最初の1年間はほぼ毎日のように売場を訪れて吸収し、その後は海外情報を急速に入手したすごさが広瀬氏の頭に残る存在となります。東京でマジックランドが開店した頃、私が東京へ行った時にランドを訪れて小野坂東氏に会うことがありました。私が大阪から来たと言うと宮中君かと聞かれることが何度かありました。

その度にママさんから「違うわよ石田さんよ」と言ってもらえました。広瀬氏が小野坂東氏と会う度に、大阪の宮中氏のことを話していたからと思います。宮中氏の人生に大きな影響を与えた広瀬氏が演じたカードマジックと、宮中氏のカードアップスリーブを演じました。

6人目はブラック高木氏です。45年以上さまざまな時期に関わりを持たれ個人指導も受けられていました。高木氏の部屋を訪れると誰もが驚くほどに多数のマジック道具や解説書が綺麗に整理され、しかも現役でマジックの出演をされています。広瀬氏の「トリプル・プロダクションボックス」とレパートリーにされているカードマジックを演じられました。

7人目が庄野勝吉氏です。初期からのSMCメンバーで、コインマジシャンとしての憧れの存在です。広瀬氏のコインボックスのコイン貫通だけでなくミニウォンドも貫通する手順と、紙幣とボールペンを使った「ムービングホール」を演じられました。

8人目は益田克也氏です。80年代に広瀬氏の個人指導を受け、その後も益田氏考案のマジックに対してアドバイスを受けていました。広瀬氏の「インビジブルホール」をカッターナイフに変えた新アイデアを広瀬氏に見せると、効果的に見せる方法のアドバイスを受けヒット作品になります。それを演じられると同時に、彼の未発表の驚きの最新作が演じられました。

最後にもう一度広瀬氏が登場され4作品を演じられました。ペットボトルのキャップを3つ使うスリーシェルゲームですが、最後には玉が消えて各キャップから500円玉が出現します。次が紙幣の2つの穴が消失する「ダブルホールミステリー」、3番目に客のカードを小さくちぎらせ紙袋に入れて火をつけると瞬間消失し、すぐ後ろにある立てた額縁に4分の3が復活し、それをクリアファイルに挟むと完全なカードに復活します、後半部分が解説にある「ダブルフェイス・クリアファイル」です。最後にシルクの両端を結ばせ、袋に入れて取り出すと解ける現象の解説をされました。いずれも不思議な現象ばかりでした。

本には上記の出演メンバー以外に、IBMの福井哲也氏やRRMCの宮島昇氏も寄稿されており、二人とも売り場での客としての関係が中心で、大きな影響を受けていました。会場は参加者数を制限するために予約制にしましたが直ぐに満席となりました。SMCメンバーであった真田豊実氏、上田一郎氏、そしてSMCの名前を受け継がれた坂本哲也氏も参加されていました。遠方からはカズ片山氏、MASAYO氏も参加され、関西ではプロマジシャンや広瀬氏ファンの方々にご参加頂きました。仕事で出席できなかった深井洋正氏や沙門零氏は、お花を飾って頂いての参加となりました。

おわりに

ダンディーで近づきにくいオーラがありますが、お話しすると親しみやすい優しさがあります。マジックも気さくに見せてもらえることが多く、本当にマジックが好きなことが伝わってきます。

2012年のUGM大会で久しぶりにお会いしますと全く印象が違っていましたので驚きました。しかし、ダンディーさには変わりなく、マジックやリハビリの話で盛り上がりました。2002年のハンガリー・サーカスでの映像や、2006年頃にUGMで演じられた30分間のパーラーマジックの演技映像も見せて頂きました。いずれも演技に無駄がなく効果的で、プロとしての凄さを実感しました。お話しマジックではギャグで笑いをとっていました。吉本興業では少なくても2回は笑わせるように社長から言われていると言って、さらに笑いをとっていました。

広瀬氏は病後ステージマジックを演じるのは難しくなりましたが、クロースアップは不思議な現象ばかりで、まだまだこれから活躍されると思っていました。2023年に入り体調を崩されましたが、9月末のUGM大会までには体調を回復させて参加することを目標にされていましたので残念でなりません。

ジョニー広瀬氏と関係が深いスピリット百瀬氏(2020年5月4日 72歳)、安田悠二氏(2021年4月11日 62歳)、バーノンズバー・オーナーの坪井伸夫(ルビー天禄)氏(2022年4月15日 66歳)、島田晴夫氏(米国2022年5月1日 81歳)、山本勇次氏(2022年12月16日 72歳)も亡くなられました。また、松田道弘氏(2021年10月24日 85歳)、三田晧司氏(2022年6月13日 77歳)、松山光伸氏(2022年12月10日 74歳)、根本毅氏も亡くなられたことがとても残念です。ご冥福をお祈り致します。

ジョニー広瀬氏とマジックとの関わり

1948 3月22日生まれ

1954 小学校入学 縁日の「成金棒」や「ひょこ」に興味を持つ

1960 中学入学 同級生のファンカードに興味を持ち、出来るように工夫

1963 高校入学 授業後や休日に近鉄百貨店駒田忍(ジミー忍)氏を手伝う

1964 駒田氏と国際大魔術団リチャルディーやドンメルンの演技を鑑賞

1965 駒田忍(ジミー忍)氏はテンヨーを退職し東京でプロ活動

1966 一般企業3ヶ月間勤務し資金を貯め東京のジミー忍氏の内弟子になり、
その後大阪へ戻り保田春雄とドラゴン魔術団で手伝いとアルバイト

1967 松坂屋百貨店の日本奇術連盟売場でアルバイト勤務

1968 日本奇術連盟職員として阪神百貨店売場を担当 奇術界報7月に写真

1969 7月に日本奇術連盟発表会が東京開催 奇術界報にステージ7名写真

1970 10月25日に故長谷川智15周忌追善奇術大会に出演 カード&ワイン

1972 ハワイPCAM大会に参加

1973 3月にSMC(スプレンディッド・マジシャンズ・クラブ)を発足

1977 4月 ジョニー広瀬&霞としてマジックユニットを結成

1978 3月4日にSMCステージ発表会 Fantasy Night ゲスト松尾昭
   ゾロエンタープライズ設立 栄和商会ビル内に事務所
   阪神と近鉄百貨店に売場 ディーラーとして深井・安田
   本格的マジック専用ライブハウス「マジックキャッスル」に出演
   仕事の負担が重なり肺結核で5ヶ月間入院

1979 退院後は和光プロに所属しマジックショー出演を中心
   FISMブリュッセル大会に参加

1983 12月17日 SMCクロースアップ発表会 森之宮市立労働会館

1984 7月4日 第1回クロースアップ・マジック大賞第1次選考会出場
   7月開催のSAMラスベガス大会に参加 英語版作品集も持参
   12月1日 赤坂キャピタル東急における第1回大賞本選に出場

1987 1月11日~20日 大阪梅田花月マジックスペシャル出演

1988 和光プロを退社
   マジックショップ「ジョニーズ」とマジックバー「沙羅」を開店
   毎週末プラザホテル最上階ラウンジでクロースアップショー

1989 毎週1年間 朝日放送「ナイト・イン・ナイト」にレギュラー出演

1990 忙しくなり「ジョニーズ」と「沙羅」を閉め、NGKに1年間客演
   10月20日(土)NGKにてリサイタル ジョニーズワンダーナイト

1991 NGK所属マジシャン第1号に 2008年まで継続出演

2002 ハンガリー国際サーカスフェスティバル日本代表出演

2006 4月米国バッファローで開催 FFFF大会に参加 紙幣やカードで魅了

2008 脳卒中発症 リハビリ開始

2011 10月23日 京橋花月のイベントに出演しクロースアップマジック披露

2012 8月のUGM大会クロースアップに出演
    その後も毎年UGM大会コンテスト審査委員を務める

2016 11月にジョニー広瀬氏の会「魔ジックフェスティバル」開催
    NGKステージ上で約20分間クロースアップ演技 巨大スクリーン使用

2017 2月 NGK舶来寄席のマジック演出と指導

2018 マジックランド Speakers で長年のNGK出演経験からのマジック対談

2022 3月に「ジョニー広瀬 奇術人生55年」出版記念パーティー
   その後 月1回「ジョニー広瀬氏を囲む会」(仮称)を開催

2023 2月に自宅で尻餅をつき歩行難で入院 数ヶ月後に肺炎で入院
   8月12日 「ジョニー広瀬氏を囲む会」に出席されるが1時間で帰宅
   8月26日 永眠

作品や人物掲載文献とDVD

1983?広瀬良雄作品集 Soul of Johnny 6作品 イラスト山下裕司
1984 英語版作品集 Soul of Johnny 6作品
1985 Richard`s Almanac Pip-It Revolutionized 紙幣2穴復元 18写真
1985 米国奇術誌 Apocalypse Vol.8, No.3  インビジブルホール
1986 Apocalypse Vol.9, No.9 アクションチェンジ
1987 ニューゼネレーション+α トリプル・プロダクション・ボックス
1988 New Magic of Japan 1988 Triple Production Box
1988 Magic Avec les billets de banque(フランス) 紙幣のペン貫通
1991 ザ・マジック9号 紹介ジョニー広瀬 スリーアクション・トリック
1992 ザ・マジック13号 ブライダル・ファンシー・マジック2題
1993 The Magic of Japan Video 3作品
1994 ザ・マジック 20号 期待されるマジシャン・ジョニー広瀬
2005 ジョニー広瀬 ショー&レクチャー DVD
2009 Bart Whaley Who’s Who in Magic 3rd Edition Hirose Johnny
2022 ジョニー広瀬 奇術人生55年 16作品 奇術人生の思い出と寄稿


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